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鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権(幕府)である。
概要
かつての通説によると、鎌倉幕府は、1192年(建久3年)に源頼朝が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在ではこの説は支持されていない。また、「日本で初の武家政権」とされたこともあったが、今日では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。但し、平氏政権はあくまで朝廷内においてその実権を掌握するに留まることから、朝廷から独立した本格的な武家政権としては鎌倉幕府が最初ともいえる。
なお、鎌倉幕府の成立には諸説あり、判然とはしない。その理由としては鎌倉幕府がその武家政権としての体制を整えるまでにはいくつかの段階を経ていることがあげられる。1180年(治承4年)に大倉に御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成されたといえる(大倉幕府)。権大納言兼右近衛大将に叙任され、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに1183年の寿永二年十月宣旨、文治の勅許、征夷大将軍の宣下がなされることにより、鎌倉幕府は鎌倉時代を通じて名実ともに武家政権として成立することとなった。当初、幕府が政治的に影響力を及ぼすことができたのは、将軍任国である関東と将軍所領のみであったが、次第にその範囲は拡大し、承久の乱で全国的な支配権を確立するに至る。
1224年(貞応3年)に北条泰時が執権となり、源氏政権が終わって北条氏を中心とする合議制を旨とする執権政治に移行した。翌年1225年(嘉禄元年)、泰時は次代将軍となる藤原頼経の元服に合わせ、御所を頼朝以来の大倉から宇都宮辻子に移して心機一転を図り、1232年(貞永元年)、日本初の武家法典「御成敗式目(貞永式目)」を制定して政治基盤を磐石なものとした(宇都宮辻子幕府)。さらに泰時は1236年(嘉禎2年)に御所を増築して以後100年にわたる鎌倉幕府の体系を確立する(若宮大路幕府)。
鎌倉幕府は1333年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の約150年間を鎌倉時代と呼ぶ。
「幕府」という武家政権による政治形態は、室町幕府・江戸幕府へと継承された。幕府という政権名称について、『吾妻鏡』に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるが、当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではない。朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿と、一般からは武家と称されることが多かった。武家政権を幕府と称したのは江戸時代になってからのことである。
成立の経緯
詳細は治承・寿永の乱を参照
平安時代末期、平清盛を中心とする平氏政権が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。1177年の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢として、反平氏の動きが活発化し、1180年、後白河上皇の皇子以仁王が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。
そうした状況の中で、伊豆に流罪となっていた源頼朝は、同年8月に挙兵し石橋山の戦いで敗れたが、逃亡先の安房から上総国・下総国を行軍する間に、関東一円の平氏系の武士団(坂東平氏)らの支持を獲得した。瞬く間に大勢力となった頼朝軍は、同年10月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、関東武士団の代表=鎌倉殿と称されるようになった。その直後の富士川の戦いで平氏軍に勝利した頼朝は、自分を支持する関東武士団の意向を受け、関東内部の平定・経営に重点を置くこととした。
1183年7月、源義仲が平氏を京都から追放したが、義仲勢力は推戴する北陸宮の天皇即位を迫り、京内で乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した後白河上皇は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道・東山道・北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。
こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、1184年、行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の源範頼・源義経を派遣し、平氏追討に当たらせ、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。
同年、源義経・源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。このときの頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)に限定されていた。
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1189年、頼朝政権は、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、完全に東国を掌握した。1190年、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞し、より自由度の高い征夷大将軍を望むようになった。これに反対していた後白河上皇が1192年に死去すると、頼朝は征夷大将軍への任官を果たした。後年、征夷大将軍は武家政権の最高職として、源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。
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なお、鎌倉幕府の支配力は承久の乱以前と以後で異なる。元々は源頼朝を棟梁とする武家集団の独自政権がその端緒であるため、当初は形式上ながら朝廷の承認を受けていた。また、幕府機構も鎌倉殿の政治機関としての性格を残しており、東国は幕府の支配下にあったが西国ではまだまだ朝廷の影響力が強く、二頭政治が続いていた。しかし乱を経ると幕府による朝廷の統制が進み、御成敗式目が制定されるなど政治の中心が徐々に武家へと移っていくことになる。
(以上、ウィキペディアより引用)
カマクラバクフ!